小さな苦悩 原題:Lesser Pain 原作:Void Star 試訳:FF(00・10・10) 鷲羽は大きなあくびをした。 鷲羽のいつものペースからすれば、まだ早すぎる朝だった。 鷲羽が自分の幼い体格を恨めしく思うのは、身体の耐久力の足りなさを感じるこんな時だった。 ここ3週間ぶっ続けで真夜中まで作業をしていたものだから、鷲羽の幼い顔にはやつれの色が ありありと見えていた。 もし砂沙美が毎晩起きて鷲羽をベッドに押し込んでくれなかったら、この小さなマッドサイエン ティストはその間一睡もしなかっただろう。 鷲羽は自分のラボにありったけの監視装置と障壁をつけて誰も入れないように封鎖しようとした が、あのいまいましい、しかし強力な津名魅との精神感応によって、砂沙美はたやすくそれらを 突破して中に入ってしまうのだった。 亜空間ラボと柾木家の室内とをつなぐ出入り口をくぐりながら鷲羽は、なんで眠るなんて習慣を なくせないのかしらね〜、などととぼんやり考えていた。 朝の6時なんかに起きなきゃならないなんてイヤでしかたないのに、最近ではそれが習慣になって しまっていた。 別にそういうふうに強制するものなんか自分には無いはずなのに、まるでそれが暇つぶしの娯楽の ようにすらなっていた。こんなとんでもない時間に起きる理由なんかどこにもないのに。  鷲羽にその理由がわからなかったのは、何かが心の奥で疼いて、すぐにしなくてはならないこと があるはずなのに、それがなにかつかみきれなかったせいだった。 *** 鷲羽がドアを開けた、そのとたんに、濃密な黒い霧がたちこめた。 そしてくぐもった悲鳴、呪詛の声が響き、そして木の焦げる匂いが鼻をついた。 あまりにも突然だったが、賢明な鷲羽は、眠りからすっきり覚めて自分の立場をすぐに悟った。 強力なエネルギーボルトが鷲羽の目の前の煙を引き裂き、狙われた標的が床にふせた。 鷲羽が怒りに顔をしかめると、爆発のほんの手前で電撃は止んだ。 紛れもなく魎呼の仕業で、そして標的は、阿重霞に違いなかった。 さっと手を振って、鷲羽はビームを消し去り、柾木家に加えられた破壊の跡を治した。ドアを 閉めながら、鷲羽は思った。 『ちょっと、洒落になんないわね』  特に誰に対して言うでもなく、鷲羽はあごに手を当てて考えた。 『これで、そろそろゲームオーバーかな。ま、勝ちは決まってるけどね』  ニヤっと笑う鷲羽。 「それは自分のことではなくて、あなたの…可愛い娘のことを言っているのですか」 何者かの声が後ろから聞こえた。 柔らかく、囁くような女性の声。 だが、「柔らかい」と「優しい」とは全く異なる形容詞。その声は冷たく、人格が感じられず、 機械的だった。 全ての感情を自ら殺した者の声だった。 鷲羽は振り向いて声の主を見た。 黒い瞳の、白い女性。黄金の冠を褐色の髪の上に載せて。全身を覆う壮麗な衣装は、豊かな 胸の谷間だけを露出していた。 彼女が鷲羽に向かって歩みを進めるたびに、エーテルの輝きを発する浮遊物が沸き上がった。 「あんたは…?」 鷲羽は眉をつり上げて、相手の言葉を促した。 訪希深は、ニヤリと笑った。 「あなたは記憶喪失のふりをして、愚かにも定命の者どもと、津名魅までも巻き込んで関わ っているのですね。でも、今日は私とちょっとしたゲームをしませんか、姉上」 それは、命令だった。 「鷲羽、あなたは三女神の中つ神。そんな目くらましはやめにして、もう一度、姉妹として 話しませんか」 ため息をつきながらも、鷲羽はしぶしぶその言葉に従い、大人の姿に変化した。 「あたしは、捕まったわけね。」  不機嫌に鷲羽が言い放つ。 「で、何が望みなの、訪希深?」 「私は、…あなたの仕掛けた『ゲーム』を見ていたのですよ」  訪希深は素っ気なく言った。 「私も、この家には少々興味を持って見ていました。とりわけ、あの樹雷の皇女とあなたの 娘との争いにね。そして、あなたは魎呼が最後には勝つと信じているのですね。」 鷲羽はあざけるように鼻息荒く答えた。 「当然よ!」 指を鳴らして、続ける。 「悪いけど、阿重霞殿にアドバンテージはないわ」 訪希深が眉をつり上げた。 「あなたご自慢の知性にしては、姉上、あなたの思考方法は痛々しいほど遅れていますね。」 鷲羽が眉をひそめて口を開いた、が、訪希深がそれをさえぎる。 「あなたは肝心なところを完全に見落としています。それを明らかにして差し上げましょう。 あなたは、本当に魎呼が勝ちたいと思っていると?」 鷲羽が嘲笑う。 「ナンセンスもいいとこね!」 そう、明言した。 「天地殿をめぐる争いのことなら、もちろん魎呼は勝ちたいと思ってるに決まってるじゃない!」 訪希深は姉をまっすぐ見つめた。 時折、三女神の長つ女神は、何がこの姉をこんなに愚かにしてしまったのかとでも言いたげな顔を 見せた。そして、今も。 「どうして、そう思うのです?」  訪希深が尋ねる。 鷲羽は腕組みして、誇らしげに顎をあげた。 「あたしは、あの娘の全ての感情がわかるのよ、私たちは精神感応しているの、わかるでしょ?」 「もちろん。しかし、あなたは精神感応を本来の能力以上に過信しているようですね」 「どこがよ?」 鷲羽が初めて純粋に好奇心から尋ねた。訪希深が自分の成果の正確さに挑むのなら、鷲羽はこの妹 の言いがかりを木っ端みじんに粉砕してやる喜びを味わえるだろう、と思った為だった。 「思考や感情の表層から、さらに奥底にまでも、精神感応は及ぶのですか?」 訪希深が質問する。 「あなたは魎呼の潜在意識まで、あの娘が本当に何を思い、感じているのかまでも、アクセスできる のですか?」 鷲羽は息を呑んだ。 「そ、それは…」 辛うじての呟いた。 「そうでしょう」 訪希深が言う。 「魎呼はあなたの創造物だから、おのずとあの娘の考えは全てわかると思いこんでいる。」 思わず鷲羽の顔に、自慢げな笑みが浮かんだ。 「だが、そこまでです」 訪希深が姉の笑みをうち消すように指摘する。 「知覚を持つ生物すら単純ではない。ましてや定命のものたちなら。全てがお見通しという気になる のは止すことです、姉上。彼らの如き下等動物ですら、複雑なものです」 「いったい、何が言いたいわけ?」  イライラして鷲羽が訊く。 「あたしは忙しいのよ。あたしを追いかけ回すのを止してくれたらありがたいんだけど」 「単純なことです。」  訪希深が言い放った。 「まさに『天地無用』」 「天地、無用?」  鷲羽も鸚鵡返しに言う。 「何のことだか、ついてけないわよ、訪希深」 「こういうことです。魎呼は、愛している」  訪希深が遠回しに繰り返した。 「だが、あの娘が愛しているのは、あなたが思っている者ではない。」  鷲羽は訪希深を鋭く睨んだ。 「つまり、魎呼が好きなのは天地殿じゃないって言いたいわけ?」  嘲笑う鷲羽。 「ばかばかしい。あの娘が天地殿を好きなのは、潜在意識を覗くまでもないわ。」  訪希深がゆっくりと頭を振った。 「そうではありません、姉上。それがあなたの短所。確実だと思いすぎて、自分では理解しきれない ことをありきたりの現実に当てはめてしまう。それが、あなたの限界。真実を偽りの姿で受け入れて しまって、真実そのものにたどり着けないでいる」  訪希深の訓戒。 「あなたの無知にはもう飽きあきしました。言ってあげましょう。魎呼の天地への『想い』は、真の心 を覆い隠すために造りだされたもの。全ての者も、あなたも、そしてあの娘自身をも、自分は天地を 愛しているのだと偽るためのもの。しかし、その奥底では、無意識ではありますが、自分が誰を想って いるか、わかっているのです。」 「誰?」  訪希深の言葉に挑まれてたじろぎながら、鷲羽が訊く。 訪希深は衣装の下から手を伸ばし、上向きに手のひらをかざした。 その上に浮かび上がったホログラフがだんだん鮮明になる。その姿がはっきりした瞬間、鷲羽は息を 呑んだ。 「ありえないわ!」 鷲羽は叫んだ。 訪希深は冷たく微笑み、黒い勝利に瞳を輝かせた。 「ですが、これが真実」 断言する訪希深。 訪希深の手のひらに浮かんだのは、阿重霞の姿。 「信じられるもんですか!」 鷲羽が言い張る。 「魎呼は…あの娘は…そんな…そんなこと!」 「事実です。そして、さらに、その感情は双方向なのです」 訪希深は告げた。 「あの二人は、自分たちが思っているよりもはるかによく似ています。自分の欲望を押さえ込むには、 時間の助けを求めるしかないでしょう。しかし、魎呼は亜神、阿重霞は樹雷人。二人とも時間は無尽蔵 にある」 「どんな証拠が!」 鷲羽は自分の肩を抱いて叫んだ。部屋がぐるぐる回っているようだった。訪希深に魎呼の真の愛情を 暴露され、その上に阿重霞の想いまでも明らかにされて、鷲羽は肺の空気が無くなったような感覚を 覚えた。 「それが確かだという証拠はないわ!」 訪希深の顔に冷酷な笑みが広がり、皮肉なきらめきが光の筋になって顕れた。鷲羽は今や、本当に恐怖 を感じていた。 このほとんど感情を見せない末妹がこれほどの笑みを見せたら、もう時間を巻き戻すことなどできない。 「それほど私が愚かだとお思いなのですか」 その声に邪悪な喜びをきらめかせ、訪希深は言い放った。 「私が自分の言うことに根拠を持たないなどと」 鷲羽は自分の額を叩いた。 「もっとよく、あんたのことを知りたいものね」 声にならない呻き。 訪希深が両腕を広げた。巨大な赤い光球がその前に出現する。 「よく見られよ、姉上!」 そう叫んで、訪希深は光球を指さした。中に映像が浮かぶ。 神我人の宇宙船「双蛇」の大広間。 円柱の一本を抱え上げた魎呼にたじろぐ神我人。 最初は静止画だった映像が、訪希深の合図で動き出し、あの戦いを再生し始めた。 破壊された円柱の残骸が床に落ちていく。阿重霞は動くことができず、自分では助かるすべがない。 だが、魎呼が神我人との戦いを中断し、阿重霞を救ってテレポートする。 再生映像が停止し、スッと消えた。 「思い出してごらんなさい。魎呼は自分の生死をかえりみず、あの憎いライバルを救いました。もし、 魎呼が、その性格通りに行動したならば、阿重霞を見殺しにしていたでしょう。実際、それよりずっと 前にそうできたはずでした。しかしあなたが自分でも言っていたとおり、魎呼はあの戦いで自分の力を 押さえていました。なぜ?阿重霞を守るためです」 「しかも、あの神我人の顛末には別の要因も考慮されるべきです」 訪希深が続ける。 「天地の死が、魎呼と阿重霞を結びつけた、それも要因の一つです。天地がいなければ、あの二人に 仲違いする理由はありませんからね。心の壁が崩れれば、また作り直さなくてはならない。しかし、 天地が死んだと思われていた間は、二人は自分の真実の感情を隠すことができなくなった。それが、 あの二人がいきなり協力的になった理由と言えるでしょう。ですから、早くから、二人とはぐれてしま った美星とは、そういう関係にはならなかったのです」 いつもはすばやい頭の回転を誇っていたはずの鷲羽だが、この訪希深の言葉に言い返せず、永遠に戸惑 ったままのようだった。 しかし、ようやく考えをまとめた鷲羽は、やっと一つの論理的な結論に達した。 ふたりは、確かに惹かれあっている。 魎呼と阿重霞の間には、愛情が存在する。 だがまだ、その結論はあまりに乱暴すぎるように見えた。鷲羽自身が完全に信じることができるには、 あまりにもあり得なさそうに見えたのだ。 「ああ、でも、信じなくてはなりませんよ、姉上」 訪希深がたしなめた。身体の芯から、鷲羽はショックを受けた。妹が暴いた秘密と同じくらい強烈に。 訪希深は、私の心が読める?どうやって!? 「あなたがショックを受けているのも、私にはわかります。そのことをあなたに示すのも、私の目的の 一つ。鷲羽、もっと証拠が見たいですか?おそらくその方が、あなたも受け入れやすくなるでしょうし」 「もう、けっこうよ」 鷲羽は、歯ぎしりした。 「あり得ないことよ。あり得ないことを証明なんかしないでちょうだい、訪希深。無駄なことよ」 「あなたの抵抗は、魎呼の異性愛へのこだわり同様、か弱いものです」 訪希深の反撃。鷲羽は息を詰まらせた。この妹が、冗談を言った? 「覚えておきなさい、鷲羽。今日中に、私は、あの二人を引き裂いてみせましょう!」 一瞬にして、鷲羽は自分が訪希深の力によって屋根の上に移動していることに気づいた。 「私たちのことは、見えず、聞こえず、感じることもできません。私たちのエネルギー痕も隠されて います」 訪希深は鷲羽に説明する。 「あなたの同居人たちに私のことを知らせようとしても、ね。ご覧なさい」 女神は前庭を指さして命じた。 阿重霞と魎呼は外に出ていたが、その戦いの激しさは、おさまる様子を見せなかった。 阿重霞は戦闘服を着て、右手には「天地剣」がしっかりと握られていた。 魎呼も同様に格闘着を着て、ビーム剣を手にしていた。二人とも互いを、怒りをもってにらみつけていた。 その激しさは互いの目から飛び散る火花が鷲羽の目にも見えるような気がするほどだった。樹雷皇女と宇宙 海賊との文字通り噛みつくような睨み合いに、ふたりは家のそばにあるものもほとんど目に入らないよう だった。 天地たち柾木家の住人たちは賢明にもその争いから身を避けていた。 「あれのどこが、愛し合ってるって?」 鷲羽は二人を見つめながら、ニヤニヤと嫌味を言った。 訪希深がすごい目をして鷲羽を睨みつけた。だがその日三度目の微笑が、訪希深の顔を覆った。 「愛ゆえの暴力、というものでしょうか、鷲羽」 冷笑を浮かべて訪希深が答える。 「ご覧なさい、あの二人の戦いが、もう長くは続かないことを」 阿重霞がマスターキーの刃を輝かせると、魎呼は数メートル上空に舞い上がり、エネルギーボルトを雨あら れと発射した。だがその全てを樹雷第一皇女は敏捷な身のこなしですばやくかわした。 魎呼のロングレンジ攻撃に、鷲羽は満足げに笑みを漏らした。しかしその笑みは、阿重霞が空中に舞い上が り宿敵に刃の狙いをつけた瞬間、かき消された。 「なにっ!?」 鷲羽が叫んだ。 「阿重霞殿は無防備なのに!なぜ魎呼はブラストを放たないの!?」 「魎呼の潜在意識が、それをさせないのです。阿重霞に致命傷を与えないようにね」  訪希深が答えた。 「そして、阿重霞も魎呼を傷つけようとはしないでしょう。阿重霞がその気になれば、マスターキーから 一撃で魎呼にとどめを刺せるエネルギーを引き出せるでしょうに。しかし、阿重霞は結局は、引き分けの 道を選ぶのです」 鷲羽は鳥肌を立てた。魎呼は明らかに手を抜いていた。人間を越えるスピードも反射神経も発揮せず、何度 も勝負を決める機会を見逃していた。 三女神の中つ女神は、今や疑いようのない事実に気づいた。 阿重霞のテンションも、どんどん落ちていった。戦いが開始され、二人が初めて剣を交えた時には、阿重霞 は魎呼の攻撃をかわすのに精一杯だった。だが、鷲羽が見ているうちに、樹雷の皇女はだんだん攻勢になっ た。 剣の腕前で、阿重霞は魎呼に遠く及ばないはず。 その意味は、明らかだった。 訪希深の言葉が疑いようのない事実であったことを、心の奥底にまで思い知らされて、鷲羽はショックに 身を震わせた。 魎呼は故意に、阿重霞に重傷を負わせないように手を抜いていた。 無意識なのかどうか、阿重霞のレベルにまで魎呼は自分を合わせていた。 「魎呼……」 鷲羽は、呟いた。 「…なんでアタシに、言わなかったのよ!?」 「言えなかったのです」 満足げに、訪希深が笑った。無駄な戦いが続いているのを眺めながら。 「あなたの抵抗も、ここまでですね。姉上」 訪希深が言う。 「ですがもう一つ、しなくてはならないことが残っています。あの二人にこれ以上無目的な争いの中でエネ ルギーを浪費させておくやむを得ない理由があるなら、話は別ですが」 第二の女神は、ゆっくりと首を横に振った。 「あんたの好きにすればいいわ」 鷲羽は苦々しく呟いた。 訪希深が二人の戦いの場に顔を向け、指さした。赤い光弾が指先からはじけた。 真紅の閃光の中に魎呼と阿重霞の姿が消えた。赤い光線が伸びて、女神たちの背後の空間を訪希深が切り裂 いて口を開かせると、光線はその丸い入口に引き込まれていった。 「来られよ、姉上」 三女神の末妹は優しく言った。だが、いくら愚か者でもそんな命令に素直に従うものではない。それ以上何 も言わずに、訪希深はむこうを向くと、その入口にすっと入っていってしまった。 鷲羽はがっくりとして足元を見つめながら、だらだらと妹の後ろをついていった。 まったく、たいした一日だわよ。ここ数日、心にずっと疼いていたのはこの事だったのね、と鷲羽は思った。 「これもあんたのポケット異次元なの?」 常に変化する空間と時間の冥府の中にある訪希深の領域は、自らが創り出した小型次元ネットワークによっ て、随行者が迷わないように、また別の目的のために、現実次元と交差していた。 訪希深がうなずく。 「その通り。この次元は柔軟で、私の目的によくかなっています」 そう、説明する。 「もう、拗ねるのはおやめなさい。私に向かって子供のふりはしないことです」 訪希深が指さした場所に鷲羽が目をやると、前方に回廊が見えてきた。 渦巻く霧のたちこめる、滑らかな石造りの回廊。 そのまわりは、完璧な闇。 だが、鷲羽は、その空虚な空間から強力な感覚を目に感じとっていた。 無意識に、鷲羽は腕をさすった。 あまりにも圧倒されて、鷲羽は訪希深から目をそらした。 「さあ、ご覧なさい、姉上。そして、知るのです」 魎呼が回廊の彼方に現れた。 *** 冷たく、果てしない暗闇から魎呼は放り出され、滑らかな暗灰色の石の回廊に押し出された。 即座に魎呼は両手にビーム剣を出現させた。 心臓が早鐘のように鳴った。 ついさっきまで、あの樹雷のバカ皇女と戦っていたのに、何の前触れもなく何かがアタシをあの空間に ぶち込んでくれた…。 かすかな記憶に、魎呼は身震いした。とはいえ、あの冷たい深淵の中よりは、この空間はまだ救いだった。 魎呼は心の中で現状の可能性を考えた。 こんなことができる力に、魎呼はあまり心当たりがなかった。 わずかな心当たりさえ、こんなことをする目的はありそうになかった。 ただ一つを除いて。 「ちくしょう、鷲羽のやつだな!」 魎呼が小声で罵った。 「今まで、何やってるんだよ!?」 威嚇するように、宇宙海賊は回廊を歩いていった。 自分の時間感覚では何時間も歩いていたが、…自分のいるこの場所では時間はほとんど意味をなさな かった。 回廊は数えきれないほど何度もねじれ、曲がっていたが、どこまで行っても枝分かれする道は見えな かった。 魎呼は歩きながら、今のこの状態から脱出したら、鷲羽をどんな目に遭わせてやろうか、と考えていた。 自分の手で研究室をぶっ壊してやろうか、それとも、ニンジンを入れた後に魎皇鬼を放り込むだけで十分 かな、などと考えているうちに、回廊はついに行き止まりになってしまった。魎呼は腹立たしげに床を 踏みつけると、地割れが回廊の床に走った。 「鷲羽ぅ!」 魎呼の叫びは、今まで発したことのないような毒をこめた呪詛だった。 「こんな無意味なことをアタシにさせやがるなんて、おまえしかいないだろうが!」 *** 鷲羽はため息をついて、頭に手を当てて振った。 「ほんとうに、訪希深、あんたの狙いは何なの?」 いらだちながら鷲羽が問う。 「こんなに魎呼を困らせて、お漏らしさせるほど怖がらせるためだけかしら」 訪希深はニヤニヤと笑った。 「私が、楽しんでいるのです」 それだけ言って、たちまちその笑いは消え去った。鷲羽が目をつり上げた。あの笑いは訪希深がまるで 物をあっちにやったりこっちにやったりして弄んでいるだけのようだった。 「でも鷲羽、あなたもよくわかっているのではなくて?この真の目的にね」 *** 一方、魎呼は石壁に蜘蛛の巣のようなひび割れを何度も作っていた。拳の一撃一撃に鷲羽に対しての呪詛 をこめながら。 そして、ついにその一撃がきれいにきまり、石造りと思っていた壁を拳が突き抜けた。そして、魎呼は肩 までその穴の中に押しのけていった。 自分が作った大穴を覗き込んでみたが、魎呼の目には何もとまらなかった。 しかし、その耳には、ごくかすかな音が聞こえていた。 意識を集中した魎呼は、ようやくその音を聞き取れた。 「…た、すけ…て……」 弱々しい呻き声。 宇宙海賊は、息を呑んだ。 阿重霞だ。 魎呼は身を引いて、崩れた壁をいぶかしげに見つめた。 この場合、どうしたらいい?魎呼はあごに手を当てて考えた。 阿重霞の声は弱々しく、傷ついている。このままでは死んでしまう。 運命のままに皇女を放っておけば、最大のライバルを排除できる。 だが、それをもし天地が知ったら、きっと天地は怒り狂うだろう。 逆に、阿重霞を連れ帰れば、天地に対しても自分の得点を増やせるはず。 それに、阿重霞の声の弱々しさからして、何かあれば死んでしまうかもしれない。 その場合も「悩み苦しんだ」ふりをすればいい。 天地も、自分を哀れんでくれるだろう。そして…。 魎呼は拳を手のひらで受けて、決心した。 「いま行くぜ、皇女さま!」 魎呼のビーム剣が両手に閃き、行き止まりの壁を×印に切り裂いた。 そして軽く蹴り上げると、壁は瓦礫になって崩れ落ちた。 魎呼が中に入ったとたんに、室内に灯りがつき、魎呼は一瞬目がくらんだ。 だが、まばゆさが消え去った時、魎呼は思わず呻いた。 実際、その声は拷問の呻きに等しかった。 巨大な岩が部屋の中央に屹立し、そして樹雷の第一皇女はその上に磔にされていたのだ。 目を閉じ、頭を弱々しく動かしている。 熱病のような汗が阿重霞の全身に流れ、バラバラに乱れた紫の髪を光らせていた。 皇女の服はボロキレ同然で、その滑らかな肌は魎呼が数えきれないほどの深い傷で覆われていた。 身体中から流れた血はほとんど乾いていたが、手首と足首の傷からは真っ赤な血が川のように流れ 続けていた。 そこには、磔刑の杭が打ち込まれていたのだ。 宇宙海賊の魎呼は、残酷な場面に無縁ではない。 死は魎呼にとってなじみのことだった。 戦士として生まれた魎呼は、どんな虐殺も、流血も、戦場の残虐行為も、自分に影響する事なんか ない、とずっと信じていた。 血を見て吐くなんてひ弱さとは無縁だと、ずっと信じていた。 だが、この部屋で、魎呼はその光景を正視できなかった。 魎呼は頭を抱えて、がっくりと両膝をついた。 「ああ、なんてこと…、阿重霞…、ごめん、許して…」 魎呼は呻いた。 *** 「いいかげんにして、訪希深、何のつもりなの!?」 室内の様子が明らかになってから、鷲羽がそう言ったのは五度目だった。 「魎呼を精神的拷問にかければ、魎呼が白状するとでも思ってるの!?」 中つ女神の指先にエネルギーが弾け、怒りの声が降った。 「もう止めなさい。今すぐに!」 訪希深の目に冷たいものが光った。鷲羽は思わず後ずさった。 「もう、始まっているのです。わかっているでしょう」 冷たい瞳、冷たい声。 「さあ、おとなしくなさい。私があなたを破滅させる前に。あなたがいつも変身している子供の 様に、ね。」 *** 「どうしたんだ、魎呼」 宇宙海賊の足元が照らされ、その声に顔を向ける。 「天地?」 いぶかしげに魎呼が言った。天地がいることに、自分がいままで気づかなかった? 「天地、ここで何してるの?」  天地は、肩をすくめた。 「魎呼と阿重霞さんが消えるのを見て、俺もそのすぐ後に連れ去られたんだ」  そう、説明する。 「俺はこの廊下に投げ出されると、戦闘服を装着して、回廊に沿って歩いてここまで来たんだ」 「そうか、この回廊は入り組んでるから、アタシも天地に気づかなかったのね、きっと」 魎呼はそう推測した。 「でも、アタシに感知されずにどうやってその戦闘服を起動させたの?」 「魎呼、お前、ビーム剣で壁を叩き切ったか?」 天地の問いに、魎呼はうなずいた。 「そうだろ、俺も気づかなかった。きっとこの場所にはエネルギーの痕跡を消す力が…」 「そんなの、どうでもいいんだよ!」 魎呼の声の激しさに驚いた天地の言葉がさえぎられた。 「阿重霞が、死んじまうよ、天地!!阿重霞をここから助け出さないと!」 天地は部屋の中を一瞥して、また肩をすくめた。 「もう、手のつけようがないよ」 そう決めつけて、天地は振り返った。 「さあ、行こう、魎呼。ここから脱出する道を見つけだすんだ」 魎呼は歩み出たが、足元が定まらなかった。 助けを求める阿重霞のかすかな呻きを、なんとか無視しようとして。 「そ、そうだね、出口を見つけないと…」 そう言いかけた魎呼。 だが、魎呼はまた膝をがっくりついて頭を掻きむしった。 「できないよ!」 魎呼は泣いた。 「阿重霞を見捨てるなんて、できないよ!!」 やれやれといった様子で天地がため息をついた。 「阿重霞さんは、もうダメだよ、魎呼」 振り向きもせずに言った天地のその声には、いらだちがこもっていた。 その瞬間、信じられない感情が魎呼をとらえた。 純粋な、氷のような怒り。 天地にとっては大切な友だちであり、生涯をかけて天地を愛している、その少女が目の前 で死にそうになっているのに、それを救おうとする魎呼に天地は露骨にいやな顔を見せた のだ! 「さあ、急ぐぞ」 魎呼の全身にエネルギーが弾けだし、その右手を挙げて、指を鳴らして固く握りしめる。 その中に集約したパワーがまるで輝く光球になって拳を包んだ。電磁気の火花が魎呼の 指先に燃え上がった。 が、エネルギーボルトが標的に放たれようとした瞬間、この亜神の少女の心の中に、二人 の思い出がよみがえった。 子どもの頃の天地が母の死に涙しているのを、なぐさめることもできず、アストラル体の 指先で天地の髪を撫でてやることしかできなかったあの日。 それよりもっと前に、天地があの洞窟の前でキャンプをしていたあの日。 赤ん坊の頃、無垢な幼児にしか見えないアストラル体の自分に手を差し伸べてくれたあの日。 魎呼は天地の人生全てを、アストラル体の時から、そして、現実の今まで共有してきたのだ。 魎呼の瞳の氷のような怒りが溶け、手の中のエネルギーがちらちらと弱まった。魎呼の目 から、涙があふれた。 「だめだ!」 魎呼は、泣いていた。 「思い出しちゃ、だめだ!天地は…、天地は、阿重霞を見捨てようと…」 苛立たしげに、天地がため息をついた。 「何のことだか」 天地が呟く。 「じゃあ、またな、魎呼。俺はもう行くぜ。気がすんだら、追いついてくればいいさ」 魎呼の瞳に氷の怒りがよみがえった。 「ちくしょう…天地!」 呟き。そして。 「バカ野郎っっっっっ!!!」 再びエネルギーが魎呼の全身にあふれかえり、握りしめた拳から弾けた。 空間を破壊するほどのパワーがエネルギーボルトになって空気を引き裂き、魎呼の手から放た れ、そして、樹雷の戦士を打ち抜いた。 天地は、叫ぶ暇もなく焼き尽くされ、その後には灰すら残らなかった。 *** 「訪希深、…あんたは、…あんたは魎呼になんてことを…」 鷲羽が呟いた。その目には、ブラストを放つ魎呼の姿がまだ紫色に焼き付いていた。 鷲羽はいま見たことがあり得ないことだと魎呼に知らせたかったが、できるはずはなかった。 これが幻影であることに、鷲羽は最初から気づいていた。 だが、魎呼は、自分が殺した天地が偽者であることがわからなかった。 魎呼は本当に、天地が死んだと思いこんでいた。 「魎呼が、どちらをより小さな苦悩として選ぶか強いたのですが」 訪希深が明かした。 「魎呼はひねくれた性質ですが、強い精神力を持っています。私は、魎呼が偽りの自分を守ろ うと、阿重霞を見捨てるのでは、と思っていました」 鷲羽の顔が、弾かれたように訪希深に向いた。 「ということは、あんたにもこの結末はわかっていないということね!?」 「もちろん、わかりません」 何を当たり前のことを、とでも言うように、訪希深は少し苛立たしく答えた。 「言いませんでしたか?確かだと思えることほど、危ういものです。この場合、私の計画は 完璧だったが、失敗したということです」 「これから、どうするつもりなの?」 鷲羽は何度もまばたきして、問いただした。 「新たに計画を練りましょう」 そっけなく訪希深は言った。 「さあ、ご覧なさい。これが『任務完了』になるかどうか、見てみようではありませんか」 *** 魎呼はゆっくりと岩に近づいていった。 魎呼は、らしくない優しさで、阿重霞の四肢を串刺しにしている杭の一本一本に指で触れていき、 エネルギーの波動を送り込んで粉々に砕いていった。皇女にこれ以上の苦痛を与えないように。 阿重霞の身体が力無く魎呼の腕の中に崩れ落ちた。 「り…魎呼…さん…」 血だらけの唇から、阿重霞が呟いた。 「しゃべるな」 優しく魎呼が言った。 「一緒にここを出るんだ。鷲羽には、このつけを絶対に払わせてやる」 「天地さま…」 阿重霞が呻く。 こぼれそうな涙を無理矢理こらえながら、魎呼が言った。 「天地は死んだ。阿重霞。アタシが、殺しちまった。天地はお前を見捨てていこうとしたんだ」 魎呼は目をそらした。阿重霞は叫び、自分を怪物扱いして呪うだろう。そう思いながら。 アタシは、阿重霞の唯一の愛する人を殺してしまった。そして、アタシ自身の愛する者を。 でも、天地の奴は阿重霞を見殺しにしようと! 魎呼は心の中で絶叫した。 天地は、阿重霞をひとりぼっちにして…死なせようと… 「魎呼さん、こっちを向いて」 相変わらずの気品をまといながら、阿重霞が命令するように言った。 魎呼はそれに従ったが、自分の目にしたことが信じられずに息を呑んだ。 第一皇女の口元には、微笑みが浮かんでいた。 「私のために、来てくれたのですね。私を、見捨てなかったんですね。 天地さまよりも、私を 守ることを選んでくれたんですね、魎呼さん」  阿重霞は魎呼の胸の顔を寄せた。 「私をここから連れだしてくださいね、魎呼さま」  魎呼はうなずいた。 「うちに、帰ろうね」  疲れ果てたように、魎呼は言った。 *** 訪希深が指を鳴らすと、映像が一瞬ぶれた。 阿重霞の全身を柔らかな赤い光が包んだ。 *** 鷲羽の宝玉とは違う、説明のつかない赤い光のエネルギーが阿重霞を取り巻くのを、魎呼は目を丸く して見つめた。光が消えると、阿重霞の全身の傷も消えていた。 ボロボロだった服も元通りになり、瞳を曇らせていた苦痛も無くなってしまっていた。 「阿重霞!」  魎呼は息を詰まらせた。第一皇女も目を皿のようにして自分の身体を見やり、自分の腕を見つめ、 肩越しに胴体を見て…。最後に、阿重霞は魎呼に目を戻した。 「魎呼さま、私…、わたし…」  阿重霞は口ごもりながら、魎呼を固く抱きしめた。涙が、頬をつたった。 「何がどうなったのか、どうでもいい。私、生きてるんですね」 阿重霞は魎呼の腕の中から抜け出て、回廊を歩き出そうとした。が、最初の一歩を踏み出そうとして、 ハッと思い当たったことがあった。 阿重霞は指を鳴らし、自分を救ってくれた人へ顔を向けた。 「忘れるところでしたわ、魎呼さま!」  感に堪えぬ声で、阿重霞が叫ぶ。 「忘れるところでした、あなたへのお礼を。勇敢なる救出者にふさわしいものを」  こういった場合、称賛を受けるヒーロー(この場合はヒロインか)というものは、その責務への報賞 など全く不要、ただおのれのすべきことをしたまでだ、と言うものだろう。だが、魎呼はそんな殊勝な ヒロインではない。 「じゃあ、どんなご褒美をくださるんだい、阿重霞皇女さま?」 魎呼はちょっと意地悪く言った。 阿重霞の顔に、ちょっとだけ苛立ちがよぎったが、すぐに魎呼の意地悪な笑みと同じくらいの笑みが 取って代わった。 「それは、もちろん、これですわ」 皮肉っぽく言いながら、阿重霞は魎呼の肩に両手を置いて、壁際に背中を押しつけた。 魎呼が口を開こうとしたちょうどその瞬間、阿重霞のキスがそれを塞いだ。 長い時間の後、ようやく離れた皇女は、甘い声で囁いた。 「魎呼さまのご希望に添ったご褒美ではないってことは、わかってますけど、でも…」 阿重霞の言葉がさえぎられた。はっと気を取り直した魎呼が、この樹雷の皇女をその腕に固く抱き寄せ、 皇女の頭がクラクラするくらいのキスを返してきたのだ。 まさにその時、二人のすぐそばの壁に、出口が出現した。だが、二人はそれには全く気がついていな かった。 出現の前触れに原爆を炸裂させても、二人の気をそらすには難しかったかもしれない。 *** 鷲羽は陰気に訪希深を睨みつけた。 「二人がキスするまで、出口を開けないつもりだったの!?」 問いただす鷲羽。 「二人があきらめるまで、ずっと閉じこめておくつもりだったのね!!」 「どうやら、私はあなたを助けてしまったようですね」 訪希深が指し示した。 「私は、あなたの『娘』の一番深刻な弱点を治してしまいました。その上に、あなたの愛する定命の者 たちを悩ませていた混沌までも、大きく取り除いてしまったわけです」 訪希深はむこうを向いて、鷲羽を追い払うように手を振った。 「私とあなたのゲームは、終わりました、姉上。家にお戻りなさい」 「そ、…でも、でも…」 鷲羽は口ごもった。 「でも、なぜ!!?」 訪希深は肩越しに見やり、口元に冷たい微笑を見せた。 「さっき、ちゃんと説明しませんでしたか?」 「なんにも説明なんかしてないわよ!!!」 鷲羽は両腕をぶんぶん振り回しながら叫んだ。 訪希深はクスクス笑った。その柔らかな声は鷲羽の金切り声と比べものにはならない。 だが、その小さな、聞き取れないほどの声が、中つ女神を完全に黙らせるほどのショックを与えた。 訪希深があんなに優しく笑うなんて、今まで無かった! 「その通りですね」 そう言い残して、訪希深は闇の中に消えていった。 *** どすんと落っこちた鷲羽は、自分が研究室の椅子に座っていることに気がついた。 「戻って…きたの?」 自問自答して、鷲羽はぶんぶん首を振った。 「それはそうと、あれって何だったのよ?」 何か奇妙なものがはっきりと、この天才科学者のなかに沸き上がってきた。 「消えた」 その囁きが、やがてだんだんと喜びの叫びに変わっていった。 「消えてる!!」 解決すべき問題が頭にこびりついていた感覚が、消え去っていた。鷲羽は凍りついた。 「あれが、そうだったの!?」 自問する鷲羽。 「うん、そうか、きっと精神感応の能力が訪希深の言っていた以上に上回っていたのね…」 鷲羽は両手をこすり合わせて笑った。 よおし、新しくやらなきゃならない仕事ができちゃったわ! きっと、二人とも子供が欲しくなるわね…。絶対、願いは叶えてあげるからね!! 鷲羽はホログラフ・コンピュータを出現させて、プランを練り始めた。 *** 一方、阿重霞と魎呼は出口の前で立ちつくしながら、手を握りあった。 「生きてますわ、わかりますでしょ?」 阿重霞が静かに言った。 「天地さまです。向こう側からパワーを感じますわ。魎呼さまが殺してしまったのは、きっと 幻影だったんです」 「幻影…」 魎呼は繰り返した。 「阿重霞、アタシは…」 「言わないで、魎呼さま」 悲しげに、阿重霞が言った。 「わかってます。魎呼さまが天地さまをどれほど愛しているか。 約束しますわ…もう、私、邪魔はいたしません」  阿重霞は寂しそうに魎呼に微笑みかけた。その瞳には新たな涙があふれかかっていた。 「お幸せにね、魎呼さま」 魎呼は微笑みかえした、が、その笑みも明らかにもの悲しげだった。胸元で両腕を抱え込んで、 魎呼はゆっくり首を振った。 「ちがう、ちがうちがう!おまえ、本当にアタシのことをその程度にしか思ってないのか、 阿重霞皇女さまよ!?」 魎呼は乾いた声で尋ねた。 「アタシの言おうとしていることが、ちゃんとわかってるか?言ってやるよ、皇女さま、おまえ とアタシが仲違いしてた時は、二人ともいつも苦い思いをしていたじゃないか」 魎呼は阿重霞の肩をつかんだ。 「どうやったらわかってくれるんだ?ここでおまえの服を引き裂いてやればいいのか? アタシは、 おまえが好きなんだ、阿重霞。天地じゃない! おまえを、愛してる!」 阿重霞はしばらく口をぱくぱく動かすだけだった。 だが、ようやく絞り出すように言った。 「どうして、家に戻るまで待ってくれなかったの、魎呼さま?」 乱暴な笑い声が魎呼から弾けた。 「そのつもりだったのに、阿重霞、おまえの方がそうさせたんだぜ」 照れたようにそう言い張って、魎呼は阿重霞の手をとった。 「さ、おまえも言ってくれるだろ?」 阿重霞は少女っぽく笑って、魎呼にすり寄った。 「私も、愛してますわ、魎呼さま」 そっとささやく阿重霞。 「ねえ、きっとお父さま、がっかりするでしょうね」 「樹雷皇が?アタシがそんなこと気にするかって」 魎呼は自信たっぷりに言い放つ。 「おまえのオヤジが文句あるんなら、訪希深のとこにねじ込みに行けってね」 「何のことですの?魎呼さま?」  二人で門をくぐりながら、阿重霞が訊き返した。 「なにが?」 「今、魎呼さまが言ったことよ」 全く好都合なことに、出口は阿重霞の寝室につながっていた。 完 --------------------------------------------------------------------------------